「町医日碌」と題して町医者の日記を随時掲載しております。
田中角栄元首相が退陣したのは1974年でわたしは中学3年生でした。
その引き金を引いたのが雑誌文藝春秋に掲載された立花さんの「田中角栄研究」であったことは有名ですが、当時は彼のことをまだ知りませんでした。2年後の1976年にロッキード事件が起きて田中元首相が逮捕された騒動の頃から文藝春秋や中央公論(父が定期購読していて家にあったので)の彼の記事を読むことが多くなりジャーナリストという職業もいいなぁと漠然と憧れたりしました。
政治評論だけでなく彼の仕事は多岐にわたり、そのいずれにおいても実にわかりやすく解説されるのでわたしはだんだんと彼の文章の虜になってその仕事をリアルタイムに追いかけるようになりました。
そしてわたしが医学生の時に中央公論で連載が始まった「脳死」は毎月欠かさず読むようになりました。
そんな大学5年のある日、文京区本郷にある文光堂という医学書専門店に入ったわたしは店の奥の洋書コーナーに立花隆さん、その人が居るのを発見!しました。立花さんは特徴的な髪型(もじゃもじゃ)なのですぐにわかるのです。
憧れの人がそこに居る….わたしの心臓はプロ野球のスター選手を目の前にした少年のように高鳴りました。
ここで会ったが100年目、サインが欲しいと思いました。が、もちろん一面識もありません。
そこで私は財布の中身を確かめて手持ちのお金で買える比較的安価な(医学書はとても高いのです)「標準脳神経外科学」という本を手にとって勇気を持って話かけました「失礼ですが立花隆さんでらっしゃいますか」すると立花さんはわたしをジロリと一瞥、(なんだこいつは)という表情でうなずきました。
「わたし、昔からのファンでして、医学部の学生なんですが今、連載中の脳死もとても勉強になります」と一気に話したところ軽く笑顔になり「こっちも勉強しながら書いています」と答えてくれまして、サインの依頼にも快く応じてくれたのでした。
時間にすると1~2分の出来事ですが生涯忘れ得ぬ記憶になりました。清算前の本に勝手にサインをもらうなど文光堂にとっては迷惑な客でしたがちゃんと購入しました。
で、嬉しくなって大学に帰って親友にそのサイン入りの本をみせながら顛末を話したところ「立花隆のことはあまり知らないがお前がやたら興奮してるのはわかる」といわれました。
ところが今回、いただいたサインをここにアップしようと思って本を探したのですがどうやら引っ越しのドサクサで何処かに紛れ込んだようで発見できませんでした。絶対に捨ててはいませんのでいつかアップしたいと思います。
その後も立花さんの活躍は続きいつしか「知の巨人」と称されるようになって何故かわたしも嬉しくなりました。後年、いくつか疑問に思う仕事や評論もありましたが、彼のものの見方、考え方、に私は多大な影響を受け、そしてどんな権力にも恐れず、媚びず言論で対峙する生き方等、いい加減な御用ジャーナリストが数多く跋扈する中で、基本的にずっと尊敬できた人でした。100冊以上の著書があるのですが気がつけばわたしは大半を購入しておりました。
晩年いくつかの大病と癌をわずらいながらも「死は怖くない」と公言しておられましたが最期はどうだったのかな、自分の思った通りの最期だったのかなと思うのですが、もちろんもう聞くことはできません。合掌。
著者:みむら内科クリニック 院長 三村 純(みむら じゅん)