「町医日碌」と題して町医者の日記を随時掲載しております。
研修医になって勤務した病院は当時、神戸市で唯一の救命救急センターでしたので全市からいろんな患者が搬送されてきました。中には救急車が収容した時点で意識がなく、免許証など身元を示すものもなくて氏名不詳のまま入院となるケースもよくありました。
そんな時にはカルテを作成する必要から収容された区を使い暫定的に兵庫区一郎さんとか長田区四子さん(数字はその年度内に運ばれた数)という名前を身元が判明するまで使用しました。
わたしが当直勤務中だった冬の寒い深夜に50歳代の男性が意識不明で運ばれてきました。
状態は低体温症でしたが身元は不明でとりあえず中央区五郎さんという名前で入院となりました。幸い治療が奏功して翌日の午後には意識がもどり夕方頃に家族もこられました。
夜にわたしが回診に伺うとベッドサイドに70歳代と思われる母親がおられたので病状の説明をしました。
母上は「本当にありがとうございます。先生はとても立派ですね」といわれました。
「いえいえ、僕はペーペーのチンピラ研修医です」と応えたのですが続けて母上は眠っている息子に目をやりながらつぶやきました「この子も本当は今頃、あなたのような立派な先生になってるハズやったんですよ」「?」なんのことかわからなかったのですが、問いを重ねることはしてはいけない雰囲気で何も言えずその場をわたしは離れました。
その翌日、医局のラウンジでわたしが新聞を読んでおりましたところ、そこに麻酔科のA先生がやって来てわたしの隣に居た整形外科のB先生に興奮したように言いました。
「B先生、僕らのクラスに○野○吉て居たでしょ」「居た居た」「あいつ、救急病棟に中央区五郎で入院してます」「ええっ!○野が?…たしか彼は学生運動にのめり込んで」「そうそう、警察に逮捕されたりしてました」「そうだったそうだった」「復学して卒業もしたんだけど、結局国試に通らなかったんですよ」「そうか〜。行き倒れて、身元不明で僕らの病院に運ばれるなんて…..気の毒やなぁ」
A先生とB先生は大学の同級生でした。これで、母上が問わず語りにわたしに語ったことが理解できたのでした。
1960年代から70年代にかけて全国で吹き荒れた学園紛争(全共闘運動)をわたしは小学生の頃ニュースで見ておりました。
後年、予備校の講師や飲み屋のマスターで元全共闘の闘士だった人と知り合いになり、なかなか魅力的な人物が多いと思いましたがその当時に書かれた本や手記を読んで紛争の結果、人生を狂わせたり一生を棒に振った人もたくさん居たことも知りました。わたしが受け持った中央区さんも時代が違っていたら医師として普通の人生を送っていたのかもしれません。
最近思いがけない方から「ブログ読んでますよ」と仰っていただくことが数回ありました。
こんな拙い文章をお読みくださり感謝に堪えません。今回もありがとうございました。
著者:みむら内科クリニック 院長 三村 純(みむら じゅん)