「町医日碌」と題して町医者の日記を随時掲載しております。
40年前の1980年12月8日、医学部を目指して浪人中のわたしは流れ流れて横浜で、両隣の音がまる聞こえの、予備校のぼろアパート(寮)に住んでいました。
その日の午後、部屋を誰かがノックしたのでドアを開けるとそこには歯学部をめざして同じく浪人中のMが青ざめた顔をして立っていました。「なんや、どないしたんや?」「ジョンが死んだ.....」まさかジョンレノンのこととは夢にも思わず「誰や、ジョンて?」「ラジオ聞け」そう言ってMは去っていきました。
なんや、あいつ、と思ってラジオをつけたわたしが聞いたのはニューヨークでジョンレノンが撃たれて死亡したと繰り返されるニュースでした。
中学1年生の時にわたしはビートルズと出会いました。彼らの音楽を知れば知るほど夢中になり、言葉は何もわからなくてもその虜になってゆき、以来今日までわたしは彼らの熱烈なファン(自称オタク)であり続けています。
4人全員がカッコイイのですが、とりわけジョンの一見破天荒とも思える言動や行動にあこがれを感じており、その突然の、そしてあまりに理不尽な訃報に、当日は呆然としました。しかし夕方のNHKのニュースではStand by meを歌うジョンのPVにアナウンサーは曲名をlove me doと言い、民法ではHey Judeが流れて「ジョンレノンが歌っています」...おまえらにジョンを語る資格はないぞ!と怒りを覚えました。
その日は勉強も上の空で、在日米軍向けのラジオ放送FENが一晩中ジョンの曲を流しており、全て英語だったので殆ど聞き取れないながらもアナウンサーが沈痛な声で事件の状況、ジョンの人となりや活動を紹介し追悼の言葉を繰り返し語っていたことを今でも鮮明に記憶しています。
40年が過ぎてわたしもジョンが亡くなった年齢を遙かに追い越してしまいました。
今年は彼の死後40年、生誕80年にあたります。生前の動画やインタビュー記事をみるたびに彼が生きていたら今日までにどれだけ素晴らしい曲を作っただろうか、どんなメッセージを送ってくれただろうか、ジョージハリスンが病で亡くなるまでにビートルズ再結成のコンサートを、きっと日本でも行ってくれただろうに、と思いはつきません。
ジョンがImagineで歌った平和な世界は全く実現していませんがコロナ禍の世界でも彼が居たら少しは明るくしてくれたことでしょう。
12月8日はジョンが生まれた1年後に我が祖国日本が全く勝ち目のない対米戦争に突入し破滅への道を踏み出した日でもあります。今こそGive peace a chance!
著者:みむら内科クリニック 院長 三村 純(みむら じゅん)